北東北縄文遺跡 その3

おでかけ

だらだら旅行記、東北の縄文遺跡見物にいってきた。3日目。今日は、環状列石をまわる。

2024/5/19

弘前ではなにやらスポーツ大会があるらしく、同じホテルにそれ関連の学生やらおばちゃんやらが泊まっていた。ここらあたりからリンゴと思われる果樹園が増えてくる。

朝からどこぞの遺跡近辺でクマが出たニュースが。
ガイドの先生によると、環状列石の時期くらい(4000年前)からクマのモチーフが出てくるそうだ。ただし、クマを食べたという証拠は出ていないそうだ。

大森勝山遺跡

大森勝山遺跡、登り口に早速クマ注意の看板。ここは今回訪れる中で一番新しい縄文晩期の環状列石の遺跡だ。岩木山がばばーんと見える。残雪もあって超かっこいい。他のこの手の遺跡もそうだが、丘の上で川が近くて山が見えるところに作られているそうだ。

(囲みは私が聞き取った話なので、不正確なところがあったらごめんなさい。)

大森勝山遺跡の性質と保存

ここは周りに家がないので、祀り(祭り)の場所である。
捨て場があり、ゴミ送りをやっていた。葬式もやっていた。
土器にシャーマンの絵がある。
東北は死して山に還る考えがある。

当時も盛り土して河原石を置いている。列石は結界の意味がある。
真ん中の小さい石だまりは祖霊を集める場所で、そこからはじめて周りに墓がある。
大型竪穴建物があるが祭祀に使った建物と考えられる。

ここは、「中に入ってもいい」保存をしている。
盛り土した上に似た石を置いている。
石の周りのコンクリートは動かないようにするためで、その形に意味はないがない。

駐車場の直ぐ側にリンゴ畑があった。実が大きくなる前のリンゴをしげしげとみたけど、どこが実かよくわからなかった。あたりは結構ヤマフジが咲いていた。
道々、リンゴ畑で働いている人たちがいた。日曜だけど農家には関係ないのか、そりゃそうだ、天候は関係あると思うけど。赤い農作業用の車でなにか噴霧していた。農薬かな。どこも同じタイプの車で田んぼでは見かけないやつだったのだが、タイミングが合わず写しそこねた。

道の駅弘前というところででトイレ休憩した。なにやらみなさんすごい勢いで野菜とかを買っていた。自分はリンゴチップとリンゴジューズとパン屋のアップルパイを買ってみた。

伊勢堂岱遺跡

伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡も環状列石があるところで、伊勢堂岱縄文館から丘を上ったところにある。時代的には大森勝山遺跡よりちょっと古くて縄文後期。近くを湯車川が流れている。鮭が遡上する川だそうだ。

案内してくれたのは伊勢堂岱縄文館の館長さんだ。

伊勢堂岱遺跡の特徴と保存

環状列石が四つある。32、36、45m…。

湯車川の河原石を使っている。
積み方は青森市小牧野遺跡と同じ。意図的に階段状にしてある。その地域と交流していたのではないか。
木のソリで石を運んだ跡かもしれない溝がある。

掘っ立て柱は床を掘ってない(竪穴でない)ので住居でない。上部構造は分かってないので柱を切ってある。

見えてる山は白神山地の南端。こういう遺跡は高い山を一望できる場所にあり、高い山に祈る。

環状列石Bは半分しか残ってない。昭和のはじめころの鉄道建設の路盤工事で削られてしまった。
その後、道路建設の予定で遺跡が発見された。環状列石が四つ出てきたので移設を諦めて現地保存することにした。
日本の遺跡は工事などで見つかって発掘されるが、99%が埋め戻される。

発掘した当時の石をそのままの姿で保存している。ここに見えるのは縄文の表土である。
石の表面を5年に一度コーティングする、土壌も。
氷が入って石が割れるので、冬の季節を前に閉鎖して守っている。

保存の都合で全部は掘っていない。発掘の技術の進歩でわかることがあるので、その日まで取っておくという意味がある。

丘を降りると、作りかけの道路の橋脚があった。遠くに見れる赤い橋は、橋じゃなくて近くの空港の誘導灯だそうだ。

縄文館の中は大急ぎで見る。

ここの石は32種類あるらしい。この後に行く大湯環状列石は1種類だそうだ。遺跡によって石へのこだわりが違うらしい。

動物をかたどったものもあった。動物のは土偶とはいわず「土製品」というのか。

土偶選手権というケースがあって、番号がついていて、見学に来た小学生が投票するようになっていた。
小学生に人気なのは2番の笑っているやつ。ちょっとアンパンマンに似ている。これは土偶じゃなくて石偶だそうだ。

お昼の場所に行く道中、同行の先生から追加の解説があった。

縄文時代の遺跡について

遺跡が埋もれるのは火山灰、赤(鉄)や黄色。その上に植物が茂って黒い土ができる。雨でながされたり、再堆積する。
関東ローム層は旧石器時代の土。山手線の中は3mくらい掘らないと縄文がでない。

環状列石は二重、墓がある。
大森勝山は1000年くらい、新しいので一重なのかもしれない。

縄文中期は家の中に祭壇あった。
後期にはない。外に出た?環状列石とか、家族ではなく集団祭祀になった。
掘っ立て柱の建物は殯屋(もがりや)だったかもしれない。
一度土葬して、洗骨して、骨をツボにいれる。環状列石の時代はそうやったみたい。

道の駅鹿角(かづの)で昼食、八幡平ポークの陶板焼き。ここはきりたんぽの発祥の地だったそうだ。だがしかし、お昼にきりたんぽは含まれなかった。きりたんぽ大好き、食べたかったなー。

桃のソフトクリームがあってとてもおいしかった。500円は高いなと思ったけど、それだけのボリュームあった。

大湯環状列石

今朝のクマ騒ぎはここであったそうだ。
大湯(おおゆ)環状列石は伊勢堂岱遺跡と同じくらいの縄文後期。県道をはさんで2つの大きな環状列石がある。県道は遺跡指定になる前からあるそうだ。
遺跡の中は立入禁止なので、近くで見れるようにと、大湯ストーンサークル館の近くに日時計状組石のレプリカがあった。

遺跡は現地ガイドの人に案内してもらった。

大湯環状列石の概要

ここは南北火山の間の火山灰台地。石は1種類で、石英閃緑岩。

大湯は縄文後期で寒冷化、最終範囲が広く分散、小さい集落が広く分散している。
儀式の場と居住地は別になる
環状列石は、共同墓地兼礼拝所
時期が下るとは環状の円が小さくなる。墓は別にある。
晩期になると礼拝所と墓がもっと分離する
酸性で火山灰で骨が残ってないが、リン酸脂肪酸が出ているので墓と判断されている。

野中堂環状列石は4000年前の地盤が見えている。
モヤ山は魂が還る山、各地に同じような名前がある。ここは杉林の向こうで山が見えない。杉はあとから植林したもの。
石の一部は、江戸時代に道をつくるときに抜かれた

万座環状列石、52m.お墓100
建物は、四角、五角、六角。居住目的ではない。屋根のない台だった説。
列石のまわり、南側に出入り口がある
柱状摂理の石などを使っている
日の出日の入りは3度くらいズレている

五角形の五本柱建物のところには、火をおこした形跡がある

展示では織物が興味部かかった。「カラムシ」という植物から繊維をとって、糸にして

展示

土器のバリエーションもすごい。五角形の土器ってどういうつもりだったんだろう。
どばんくんは、ドットが数を表すとか、口から下に通じる穴があって体の構造を表しているとか、いろいろ研究されているようです。

見学はここまで。あとは新幹線ののって帰るだけ。
今回のルートは盛岡→青森→津軽→弘前→北秋田→鹿角→盛岡というルートだった。

縄文時代の「栗の食べ方」がすごく気になったので、同行のガイドの先生に聞いてみた。今の感覚だと焼き栗とか栗きんとんとかオヤツし、栗ご飯は、米がメインだし(米、まだないし)。
栗は潰してきんとんにしたり、茹でてから干して保存食(かちぐり)にしたのでは、とのこと。そんなに変わらないな。
中世では、栗・漆・桑が税金となる重要作物だったそうだ。江戸時代には栗だけのご飯(米なし)というのもあったらしい。栗は主食となる食べ物だったということだ。
トチは粉にしていたそうだ。団子ではなく、シチューにしていたかもとのこと。土器におこげの後があるのだが、成分まではわからないらしい。
麻の実、キハダの実、ノビルなどは土器に痕跡があるそうだ。

…お米の代わりに栗を食べていたのか…。でも主食は肉や魚だったかも? と思って調べてみたら面白い研究が出てきた。 → 学術誌『食品経済研究』第19号「縄文時代の食生活」日暮晃一
この研究によると、北海道などは海獣ばっか、長野などでは栗のなかま(堅果類)ばっか、といった具合に地域差がすごいみたいだ。それもそうだよな。北東北は海獣の骨も出てるし、陸獣も魚も植物もってどれが主食というより季節によってメインな食べ物が違っていたかもしれない。

道の駅で買ったアップルパイと、盛岡駅で買ったずんだスムージー。両方ともとてもおおいしかった。

半端な知識で縄文遺跡巡りをしたわけだが、山の重要さとか、丘での暮らしとか、行ってみて実感できてよかった。そして、いまの我々の生活様式は稲作の始まった弥生以降の価値観なんだなと今更ながら認識した。2000年くらい続いているわけだが、今って転換点だよね、1000年後はどうなっているのか、など考えてみたりして。

いずれ、長野や新潟の遺跡にも行ってみたいと思う。その前に、地元にある弥生で放棄されてない縄文遺跡があるらしいので、そちらから、かな。