北東北縄文遺跡 その2

おでかけ

だらだら旅行記、東北の縄文遺跡見物にいってきた。2日目。待望の三内丸山遺跡だ。

2024/5/18

三内丸山遺跡

ホテルの朝食ビュッフェ、ここはパンがおいしいと聞いたので思いっきりパン食に振ってみた。たしかに、おいしかった。

三内丸山遺跡は、資料を展示している縄文時遊館の向こう側にある。建物の壁面が地層っぽくなっていて凝っている。
敷地全体の模型がある。一番右側の人の前あたりが有名な六本柱があるところで、時遊館があるのは真ん中の道っぽいところの左側だ。。

遺跡への出口がトンネルっぽくなっている。壁面には土器のかけらがはめ込まれている。

「道」は、縄文時代の「道」で、その脇の盛り土はお墓である。(囲みは私が聞き取った話なので、不正確なところがあったらごめんなさい。)

北東北の縄文遺跡と三内丸山

縄文時代の文化圏は北緯40度の南北、すなわち北東北と南東北で全く違う。土器の特徴が違う。
一方、津軽海峡でモノや人が動いているので、北海道と北東北は同じ文化圏である。(世界遺産指定は”北海道・北東北の縄文遺跡群”)

縄文時代にも「道」はあった。道は、土を天地返しして真ん中を踏み固めて作られている。表土は黒く、その下は粘土なので、調べると道の部分が天地返しされていることがわかる。
道は、隣村や海へつながっている。

道の脇に墓がある。盛り土をしてあるところに環状配石がある。ひとりひとりの墓で、村を見渡せる高い場所にあるので、村の歴代リーダーだと思われる。
墓から木棺と副葬品は出ているが骨は出ていない。副葬品は贅沢ではないので、「身分」というようなものではなかったと考えられる。
盛り土は道の外側のほうが高い。副葬品が高い側にある。副葬品は通常、頭側に置かれるので、道を見守る形で埋葬されていたと考えられる。

三内丸山遺跡は、野球場を作ろうとしていて見つかった。実際、スタンドの工事が始まってしまっていたが、貴重な遺跡がどんどん出てきたので開発をやめて、作りかけたスタンドは取り壊した。

ガイドの先生は縄文尺の話もされていたのだが、ちゃんと覚えていない(自分のメモもいい加減)。

子どもの墓

子どもの墓は大人の墓とは別の場所にある。家の近くにある。土器に入れて埋葬されている。

他の地域で土器の中に子どもの骨が残っている例がある。多くは一歳未満。
子どもの墓と大人の墓を比較すると、子供は大人の4倍、亡くなっている。江戸時代も死亡率は同じくらい。体格はいいので、栄養ではなく衛生状態のせいと考えられる。

子どもの死に対する死生観の話があったのだが、メモしそびれている(^^;

ここはまだいろいろなタイプの復元住居がある。樹皮屋根は倉庫かも、とのこと。入口の形状は残ってないのでわからないとか。ただし、入口から床に降りる梯子段の基礎は残っているそうだ。

高床式建物

高床式建物として復元されているが「高床」だった証拠はない。ただし、柱の間に炉がないので、「住居」ではない用途の建物である。
縄文時代ではこういう建物へのハシゴの証拠もないが、古墳時代にはハシゴが出ている。

有名な6本の柱は、元あったところはドームで覆われて保存されており、復元は隣に建てられている。

大型掘っ立て柱

6本の大型掘っ立て柱は、柱の根っこが穴の中に残っていて、栗の木だということがわかっている。真っ直ぐな栗はなかなかない。復元のときに国内を探したが、この規模の木は天然記念物に指定されており使えなかった。今の復元は海外から輸入した木材である。

どのくらいの太さ・長さの柱だったかというのは、穴にかかっていた圧力を調べたりして算出する。
太い柱が立っていたことはわかっているが、柱の上に何が載っていたかは証拠がなくて想像でしかない。

穴の底に紅葉が紛れていたので、柱を建てたのは秋と想定されている。
どうやって大きな柱を建てたのかは不明。通常、埋まっている部分と出ている部分の比は1:3

ここは1500年くらい続いた集落なので、いろいろ積もっている。

捨て場

縄文時代は、土器のかけらなどの生活廃棄物は村の中に捨てられていた。弥生時代だと村の外に捨てるようになる。
使い終わったものを「送る」という意識がある。

タニウツギは、田植えの頃の咲く花だそうで、田植え花ともいわれているとか。確かに、今、この地域は田植えの真っ最中である。

野外の見学のあとに、縄文時遊館の展示見学だ。

ここには、縄文人の復元像とか、犬とか、ちょっとポップな展示がある。縄文人の服ってどうしてわかるの? と思っていたら、「服」の復元もあった。布の断片が出土しているそうだ。針も出土している。耳飾りや首飾りがあることは知ってたけど、ヘアピンまである。編み機もあったようだ。1mmくらいの糸を編んで作るらしい。
編籠は、針葉樹の樹皮を使った網代編みだそうだ。

狩り

イノシシ、鹿はあまり出ない。小動物が出る。
イノシシを崇めている。

鹿の角を南から輸入して針を作っている。

土器のスタイル

初期の土器はパッチワークでっ作っていた。
縄文の時は粘土紐を回して積み上げていく。少し乾燥させてから模様をつける。
土器は秋に作っている。梅雨時だと乾かない。

大木式(一番上)は南から来た人と混血してできた。円筒だったものが大木式に変わる。土器のスタイルが変わるということは精神が変わるということ。

土器の形式で年代がわかる。示準化石みたいなものらしい。
下段が古くて上段が新しい。

接着・染色

接着剤として精製したアスファルトを使っている。土偶の修理などに使われている。
縄文の着色は赤と黒。赤はベンガラ。鉄分を含んだ鉱石を精製して作る。
すなわち、縄文時代はすでにアスファルトやベンガラを精製する技術があったということだ。

北海道の黒曜石とか、糸魚川のヒスイとか、交易の結果だ。釣り針とか芸が細かい。

やはりオモシロい土偶。岩偶というのもあった。

縄文時遊館の中の食堂でお昼を食べた。古代米を使ったりして縄文っぽいメニュー。おいしかった。
栗ソフトクリームもあったので、食べてみた。

田小屋野貝塚

田んぼを見ながら津軽平野の日本海側へ。田小屋野貝塚に集落があった時期はいわゆる縄文海進の時期で、津軽平野は海だったらしい。今の津軽平野は一面田んぼだ。遺跡は国道から少し上がったところにある。振り返ると津軽平野とその向こうの山が見える。

田小屋野貝塚は、5000年くらい前(縄文中期)の村で、住居跡が北から西に移動し、消えているらしい。

ここは人骨がみつかっていることで有名らしい。みつかった場所には実物大説明パネルが置いてあった。

人骨

日本の土壌は火山灰などの影響で酸性で、人骨はあまり残らない。貝塚では、貝のカルシウムのおかげで骨が残ることがある。

ここで見つかった人骨は屈葬である。
骨盤に出産にともなってできる出産痕があるので、女性とわかる。歯がかなり摩耗しているので、皮をなめすのに使っていたのではないか。

あとで調べたら、毛皮を使う民族の一部では、なめしの工程に「歯で噛む」というのがあるようだ。そして皮なめしは女性の仕事らしい。

ここの貝塚からは、しじみがいっぱいと、うさぎ、きつね、トド、イルカ、アシカなどが出ているそうだ。この立地だと海の幸・山の幸両得、みたいな感じだったのかな。

亀ヶ岡石器時代遺跡

田小屋野貝塚からすぐのところに亀ヶ岡遺跡がある。かの有名な遮光器土偶が出たところだ。近いけど時代は離れていて、亀ヶ岡遺跡は縄文時代晩期だそうだ。

亀ヶ岡の概要

台地の上、北側に共同墓地45基、南側20基。

江戸時代から土器がでることを知られており、遺物が散逸している。学術調査は明治時代からで何回も発掘調査されている。
低湿地から遮光器土偶が出た。植物で編んだものなども出土している。

雷電宮の逸話を現地で聞いたのだが、忘れてしまった(^^;

亀ヶ岡のバス停があったが、1日に数本みたいなので、バスで観光するのは難しそう。

遺跡の丘を降りると、ばばーんと遮光器土偶「しゃこちゃん」の像がある。このスタイル、土偶のシンボルにさえなっているのではないかと思う。私も大好きな土偶なので、なんか気分が上がる!
駐車場近くに小さな土産物があり、ベンケイ貝にしゃこちゃん模様をつけたものとか、お手製の折り紙とかがあった。折り方ガイドがあるかどうか聞いてみたが、それはないとのこと。紙二枚でつくっているらしい。

このあと、これらの遺跡からの遺物を展示している縄文住居展示資料館カルコに向かった。

しゃこちゃんは国宝なので実物は上野の国立博物館にある。ここにあるのはレプリカ。でも、学術のレプリカって、本物の代わりに研究できるレベルのコピーなので、いわゆるブランド品の模造品とは全然違う意味あるものだ。レプリカにご対面して感動する我らであった。

そのほかの土偶。顔貌がおもしろすぎる。どうするとこうなるのか…。

土器の形もバラエティーに飛んでいるというか、現代の食器とおなじくらいバリエーションがある。縄文土器をなめてはいかん。

木造駅

なんと駅に巨大しゃこちゃん。列車がくると目が光るそうだ。だがしかし、列車がくるのは2時間に1本くらい。
この日は、観光ツアーのためにわざわざ目を光らせてくれた。LEDなので、なんかうまくカメラに光っているところが収まらない。

この巨大しゃこちゃん、大金かけて作ったらしいが、我々の他にも観光バスが来ていて、観光資源として十分に働いているのではないかと思う。駅の売店でしゃこちゃんグッズやみやげものを売っていて、結構な人たちが買っていた(自分もね)。

夕食は菊富士というお店で津軽の郷土料理を食べた。昆布で巻いたおにぎり、昆布が噛み切れず一同苦戦。

おみやげに土偶テーマのお菓子をいろいろ買ってしまった。それから、展示案内や遺跡発掘の資料本など、他で探すのは難しそうな本も思わず買ってしまったので、荷物が重い。

このあたりまでくると、岩木山がすごい。霊山の存在感。オカルトの人たちやムー民が夢中になるのもよくわかる。関東における富士山のような存在だが、津軽平野側からみると他の山が見えないので、なおのこと凄みがある。

3日目に続く。