北東北縄文遺跡 その1

おでかけ

だらだら旅行記、東北の縄文遺跡見物にいってきた。

にわか縄文ファン、三内丸山遺跡だけはずーっと見たいなと思っていたが、事前知識はあまりなく『土偶を読むを読む』と『地球の歩き方 ムーJAPAN:〜神秘の国の歩き方』で予習して臨んだ。

2024/5/17

東京駅、いつもの5 Crossties Coffeeでトースト&卵サラダ&ヨーグルトのモーニングセット。安定のおいしさ。

ツアーの集合場所に着いたら、すでに知り合い同士なのか、談笑しているツアーメンバーがいた。テーマが縄文遺跡という趣味性の高いものなので、別の場所へのツアーで一緒だったりしたのか?とか思ったけど、違った。同行ガイドの先生と先生のカルチャー講座の生徒さんがいて、そのまわりで話が盛り上がっていたってことのようだった。

乗り込む予定の新幹線は大宮の次は仙台だった。すげぇ飛ばす!停車駅少ない!!

ツアーで今回訪問する遺跡についてのレジメが配られた。知識レベルがムーなので助かる。今回行くところに印をつけたりして予習する。

盛岡で新幹線を降りて、道の駅石神というところで昼食。途中、田植えの真っ最中だった。しろかきの耕運機は当然と思っていたが、苗を植えるのも機械で、その機械に苗をセットするのが大変そうだった。

あたりは広葉樹林で、ヤマフジが咲いていた。いままでの北陸や東北方面の旅行では針葉樹が多かった気がするのだが、それより北なのに広葉樹が多くて不思議な感じ。今回は縄文がテーマなので、栗とか楢とか栃とか広葉樹が気になるからそう見えるのか…。
あとで調べてみたら、自然植生としては、北陸も東北も落葉広葉樹なんだそうだ。ただ、杉とかヒノキとか植えている山が多かったってことなのかもしれない。

道の駅では「いわてまちキャベ焼きうどん」というのをたのんでみた。このあたりはキャベツが名産なんだそうだ。特においしいキャベツというほどのこともなかった。そもそも、日常的に三浦名産のキャベツとか食べてるからな、あまり差が感じられないのかも。

あと、並行して走る線路が複線なのが新鮮だった。いままで、わりと単線に遭遇することが多かったので。いわて銀河鉄道(元・東北本線)だと思う。

御所野遺跡

最初の訪問地は御所野(ごしょの)遺跡。縄文中期で新潟の火焔土器と同じくらいの時代だ。800年に渡り人が住んでいたそうだ。
川にかけられた吊り橋を渡って遺跡へいく。吊り橋といっても屋根がついているので、橋感はあまりない。橋の中にはところどころ土器のレプリカが置いてあり、気分を盛り上げる。
橋の下の谷に”縄文時代の水場復元”といっていたが、ちょっとよくわからなかった。
橋を出ると、そこが御所野縄文博物館。

まず、復元遺跡を見る。現地のガイドさんがつく。

建物のすぐ脇に、刈り込んだけど生えてきたという漆の木があり、漆の話になる。以下、囲みは私が聞き取った話なので、不正確なところがあったらごめんなさい。

縄文時代に漆は接着剤として使われていた。鏃を矢につけたり、土器の修理をしたり。
それから、土器の釉薬として使われるようになる。

ここの漆は(なんらかの問題があって)切ったのだが、ひこばえといって、根から細い枝がたくさん生えてきている。

漆を塗った木製品などは、このあと行く是川遺跡ではたくさん出ているそうだ。

木材の利用

植生は当時多かったコナラやクリをあとから植林した。コナラの実はいわゆるドングリである。
花粉からすると、この時代はトチノキはまだ少なく、クリがたくさんだった。寒冷化でクリが減ってからトチノミが利用されるようになった。トチノミは、アク抜きしないと食べられない。アク抜きの技術が必要。
「まゆみ」は東北地方で弓を作るのによく使われていた。(南の方はまた別の木)
ケヤキは入れ物、曲げ物などに使われていた。

縄文体験館という大きな建物に入る。ここは火起こしなどの体験学習をする場所なのだが、掘っ立て柱のあった遺構の上に建てたものだそうだ。太い柱が等間隔で並ぶ。屋根はどのようなものだったか不明だそうだ。
この大きな建物の用途は、住居ではなく集会所や作業所だったのではないかとのこと。
結構広い。バイキングのロングハウスっぽい。

いくつかのタイプの復元建物がある。大型の建物跡と違って、住居の柱は等間隔ではなく太さも多様でコンパクト。建て替えるときに少しずつ柱の位置をずらしているそうだ。

土屋根説

ここでは竪穴式住居が土屋根で復元してある。土屋根は夏は涼しく冬暖かいので合理的。
以前は、竪穴式住居は茅葺きで復元されていたが、茅葺きであるという根拠はなかった。大陸の北方民族の竪穴住居も土屋根であるということから、土屋根説が出てきた。
屋根は樹皮などで作り、その上に床を掘り下げた土を載せる。しばらくすると屋根に草などが生えてくる。屋根の角度は60度くらいがよい。角度が急だと載せた土が落ちてしまう。

御所野遺跡に、住居を焼いた遺構があり、実際に土屋根で復元住居を作って燃やしてみたら、焼け落ちた跡の土や炭化した中のものの色や層準の傾向が、遺構と同じになった。(実験考古学の成果)
各地の遺跡や教科書などはまだ改定されていない。

この時代は土葬で屈葬である。その墓穴を土坑という。
村のまんなかに土坑とその上に石を載せている「配石遺構」がある。置かれている石には、茂谷山(もやのやま)の花崗岩と見られる石があるそうで、結構大きくて重い石をわざわざ運んできたようだ。

集落が終わる時

縄文の人たちは、モノを火送りしていた。アイヌにある霊送りの考えや、今もどんと焼きとか針供養するのと同じような考え方を持っていたという仮説。
住宅を焼いた遺構では、日常用具と祭祀用具が一緒に焼かれており、モノ送りの一環で、村を去るときに焼いたのではないか

山が痩せると動物がいなくなり、大きな集落は維持できなくなり、人々は離散する。離散した先には墓がないので、ここが聖地(墓所)として残ったと考えられる

ツアー中、別の時に聞いたのだが、縄文の住居跡は丘の上にあることが多く、弥生の遺跡とは重複しない。それは生活の糧を狩猟と山の恵(一部、栽培)としていたためで、弥生になって水田耕作が始まると生活の糧が水の貯められる低地になるので人々は低地に移動したからだと。なーるほど!(あとで調べたら、たまに縄文から古墳時代まで続く遺跡というのもあるらしい)

外の見学後、博物館の中を見て回る。土器がバラエティーに富み過ぎてびっくり。THE・縄文という時は少なく、つるんとしていて「弥生じゃね?」みたいなやつもいっぱいあるし、急須みたいな複雑な形をしてものもある。すみません、知りませんでした(^^;

鏃には、珪化木を使ったものもあるそうだ。もとの木はセコイヤではないかとのこと。

やっぱ、土偶が楽しい。遺物はほとんど道具などで、土偶はとても少ないらしい。
いろいろな顔がある。無精髭おっさんっぽいやつとか、遮光器土偶っぽいやつとか。ここで一番有名なのは「鼻曲がり土面」らしい。

是川縄文館

是川(これかわ)遺跡は5000年くらい続いて村の移り変わりを知ることができるところで、大正時代から脈々と調査されているそうだ。
5000年ってどうよ、バビロンにずっと人が住んでましたっていうくらいの期間だよね。縄文時代は1万年ちょいだから、その後半半分くらい続いていたってことだよね。どんだけいいところだったのか。今は八戸市の真ん中あたりだ。

ここは低湿地も含まれるので、木製品など残りにくいものも結構残っている。遺跡を見る時間はなく、縄文館だけ見学した。

ここはなんといっても合掌土偶が有名。入口近くに触れるレプリカがあり、本体は奥の部屋に鎮座していた。レプリカは結構重い。中空の土偶じゃなかったんだ。

手を合わせているので「合掌土偶」といわれているのだが、同行ガイドの先生はお祈りではなく「座産」の姿だと。

座産説

明治期までは座産が一般的だった。この姿勢は力が入っていて座産ではないか。

合掌するときは普通、手のひらを開いて合わせるが、この土偶は指を組んでしっかり握っている。また、肩に力が入っている。ひっくり返すと尻の穴が見える。

地元では「いのるん」とかいうキャラになっちゃってるけど、まじ、座産であってお祈りじゃないとしたら(^^;

ここは、漆塗りの土器やら木製品やら、カゴ(籃胎)やらがいろいろあった。縄文人、芸が細かい!

いろいろなお道具あり。

縄文時代は、人と戦うための刀剣はなかったはずなのに、なぜ石刀と石剣? と思ってあとで調べてみたら、これは形が刀剣に似ているだけで、実質は刀剣じゃなくて祭祀の道具(石棒みたいな)と考えられているとのことだった。

で、やっぱり土偶がおもしろい。遮光器土偶はそれなりの様式があるようだが、それ以外は、いいのか、好き勝手に作ってしまって、という感じがしないでもない。

是川縄文館で買った「縄文クラッカー」、軽くておいしかった。
宿に向かう途中、草刈り仕事中のヤギをみかけた。

宿は、青森駅のすぐそばだったのだが、外に食べに行く気力がなっくて、本当は食べに行きたかった「味噌カレー牛乳ラーメン」のカップ麺バージョンをコンビニで見つけてそれを夕飯にした。結構イケたので、やっぱり本物の味噌カレー牛乳ラーメンを食べに行けばよかった…。

2日目に続く。